PROJECT STORY 01 ベトナム工場建設

PROJECT STORY

10年の歳月と難関を乗り越えた
悲願のベトナム新ミル建設

1994年1月設立、1996年1月に創業を開始したビナ・キョウエイ・スチール社。
ベトナムの急激な鉄鋼需要増大に年間45万トンの生産量では追い付かず、
2005年に新ミル建設計画が浮上する。
国際競争を勝ち抜くためにも現地での効率的な生産・物流体制の強化は急務だったが、
許認可問題や合弁パートナーとの協議に難航し、計画は一旦、頓挫したかに見えた。
しかし、2011年、再びプロジェクトが動き出す。

PROJECT MEMBER

  • 鳴海修
    枚方事業所 事業所長

    鳴海 修 Osamu Narumi

    • 金属工学科
    • 1974年入社
  • 林剛史
    関東スチール株式会社・製造部 部長

    林 剛史 Takafumi Hayashi

    • 工学部・材料工学科卒
    • 1995年入社
  • 小川卓也
    枚方事業所製造部製鋼課 副主査

    小川 卓也 Takuya Ogawa

    • 工学部・先端マテリアル工学科
    • 2010年入社
SECTION01

未踏領域での
プロジェクトへの挑戦。

その辞令に鳴海は目を見張った。ベトナム南部の事業拠点ビナ・キョウエイ・スチール社(以下、VKS)の新ミル建設プロジェクトのマネージャーに指名されたのだ。これは、拡大の一途をたどるベトナムでの鉄鋼需要に対応するため、従来の第1圧延工場に加え、電気炉を持った製鋼工場と第2圧延工場を新たに建設するというものだ。当時の鳴海は、関連会社となった中山鋼業株式会社に出向中。会社更生法を申請した同社の再建を見事に果たした、その手腕を買われての人事だった。
異国の地を舞台にした巨大プロジェクトである。しかも、まっさらな状態の土地、いわゆる「グリーンフィールド」からの工場建設は、大ベテランの鳴海にもまったく経験がなかった。期待と不安。胸中に湧き上がる感情を抑えることができなかった。
鳴海に課せられたミッションは3つだ。完全無災害による建設工事の完工。最新鋭仕様を備えた工場の実現。そして、操業を2年で軌道に乗せること。どれも難問である。
発足時のメンバーは現地スタッフ4人を加えた8人のみ。その中でメンバーの要として期待されたのが、枚方事業所大阪工場で製鋼課長を務めていた林だった。
鳴海も林も鉄鋼設備と操業での経験はあるが、“建設”の専門家ではない。しかも共英製鋼には、土木や建築工学出身の人材がいなかった。そこで現地に駐在する日系建築コンサルタントの協力を仰ぎ、2013年5月にようやく建屋の建設工事へと突入する。

SECTION02

当たり前の常識が通じない
“ベトナム流”

現地に降り立って、まず立ちはだかったのは言葉の壁だった。だが、これは予想できたこと。英語を中心に丁寧にコミュニケーションを重ねていくしかない。
それよりも鳴海を困惑させたのは、日本とベトナムの両国間に横たわる大きな“常識”の隔たりだった。現地スタッフが時間に遅れるのは当たり前。しかも時間の約束が成立しないだけでなく、「工事現場での禁煙」といった初歩的な規則すら守られない。このルーズさは個人の資質ではなく、お国柄なのだ。
注意してもまったく改善されない現状に、鳴海は一計を案じる。現場に誰よりも早く出勤し、たばこの吸い殻を自ら集め始めたのだ。粘り強い清掃活動に各プラントメーカーのマネージャーらも襟を正し、禁煙が徹底されることになる。
上から頭ごなしに押さえつけるのではなく、同じ目線に立ち、理解と共感を得る。人を刺激するのは人の動き、つまり行動力に他ならない。出向していた中山鋼業株式会社の立て直しで培った鳴海の信念が実を結んだ瞬間だった。
一方、林をもっとも驚かせたのは安全意識の希薄さである。高所でも安全帯を付けずに平気で作業する姿は、林いわく「まるでサーカスのよう」。注意した瞬間だけは指示に従う素振りを見せるが、目を離せば元に戻るばかりかさらに悪い状況になってしまうため、四六時中目を光らせた。声を涸らして怒鳴りまくる日々だったという。
後から合流する小川も、このベトナム流常識の洗礼を受けることになる。

SECTION03

建屋完成の果てに
待ち構えていた難問。

本社生産企画部に所属していた小川がベトナムへ渡ったのは、建屋の建設工事開始の翌年のこと。林がスペックを詰め、発注した設備および付帯設備の据え付け工事において、現場での工事工程の管理に従事するためだ。しかし、ここでプロジェクト最大の問題が勃発する。なんと建屋に設備が入らなかったのだ。鳴海は言う。「新築の家にいざ引っ越して来たら、ベッドが玄関から入らなかったわけです」と。
考えられないような出来(しゅったい)の背景には、“各設備と土木建築を同一業者に纏めて発注するターンキー方式でなく、個別入札にて業者を競わせ発注額を低減するコンセプト”が大いに関わっている。
このため建設業者の選定には、先に設備組立図を設備業者から提出してもらいそれに基づき土木建築見積もりを行うという必要性が生じた。最終入札にて、土木建築業者は日系ゼネコンに決定するのだが、日本国内では無論、ベトナムでも初めての製鋼・圧延一貫工場の建設という大型工事となり、経験不足が露呈してしまう。
また建屋関連確認のCADも毎週10~30枚単位で届き、これらの確認も必須であった。
設備は完成している。ならば建屋の構造を変更するしかない。補強を行った上で柱を切断するという苦渋の選択がなされた。
小川が着任したのはこの異常事態の中でのこと。すでに前途多難である。しかも、中国から納入された設備の一部に不具合が発覚するなど予想外の問題にも直面させられる。
そしてその先に、最大の試練が待ち受けていた。

SECTION04

困難を極めた
メーカーと据付業者の仲介。

通常なら、設備はメーカーが一括して取り付け工事までを行う。ところが、設備メーカーと据付業者も個別入札であったことなどから、メーカーとは別に据付業者が選定された。
それだけでもイレギュラーだというのに、前述の建屋問題もあり、建築工事が遅れる中でのメーカー立会確認者と日系据付業者の共同作業をVKS側が纏める据付工事だったのだ。
小川も素人ではない。ゼロからの工場立ち上げは初めてでも設備の製造や据付の経験は積んでいる。だから、やり遂げられる自信はあった。あったはずなのだが、言葉の壁や国民性のギャップなど、日本とは勝手が違うことがあまりにも多かった。意見を交わしていても、それが良いのか悪いのかさえ判断がつかなくなってくる。
さらに、現地のベトナム人スタッフの意外な一面にも戸惑わされた。書類上に明記していないことについては、「そんなことは書いていなかった」と主張してくる。わざわざ言わなくてもわかるだろう、といった常識感覚が通じないのだ。
大雑把かと思えば細かさを発揮するスタッフ相手に、小川の英語への苦手意識が募っていった。また、メンバーが少数だったことから、日本でなら分担するような業務も一人で背負わねばならならず、業務の幅広さものしかかってくる。
事態打開のために、小川は週3回、1回2時間の英会話教室に通い始めた。普段もできる限り英語で話すように努め、苦手意識を克服していく。そして、たとえ小さくても疑問はすぐに直属の上司である林へ相談するよう徹底した。風通しの良い環境に支えられてプレッシャーを跳ね返し、小川は課題だらけだった業者間のとりまとめをこなして、一歩ずつ着実に前進していく。

SECTION05

ホットランを迎えた3人の
胸に去来するもの。

こうして当初の予定より遅れること9か月後の2015年3月中旬、3年の歳月をかけた建設工事が完成。第2圧延工場がホットラン(試運転)を開始した。
全工事過程において大きな怪我人を出すことなく、ほぼ無災害で終えられたことに鳴海は心から胸をなでおろしていた。第1のミッションは成し遂げられたのだ。後日、ある日系のプラントメーカーのマネージャーから「この規模の工事なら被災死亡者が複数出てもおかしくなかった」という驚きを秘めた言葉を聞くことになるのだが、稼働を見守る当時の鳴海はまだ知る由もない。また、圧延工場から遅れること3ケ月後の6月中旬、ついに製鋼工場がホットランを迎えた。
「本当に完成するのだろうか」。何度繰り返したかわからないその言葉を、林は鳴海の横で改めて反芻していた。今日という日を信じていなかったわけではない。だが、目の前の課題への対処に追われる日々で、全体のビジョンが見えなくなることがあったのは確かだ。しかし今、機械の振動に呼応するようにして、じわじわと実感が込み上げてくる。「本当に完成したんだな」と。
小川は自身の知識や経験不足をかみしめていた。やれることはすべてやったはずだ。いや、そうだろうか。悔いがないかと言えばやはり嘘になる。それでも無事に半製品(ビレット)ができたのを目の当たりにして、思わず両手の拳を握りしめていた。身体の芯が熱い。苦労のすべてが遠く霞む、言葉にしがたい達成感だった。

しかし、ここはスタート地点に過ぎない。ベトナム・コンプライアンスに従ったレベルの高い製品を製造し続け、ベトナムのみならず、東南アジアの鉄鋼供給の中核拠点としてVKSが機能してはじめて、すべてのミッションが完了する。
共英製鋼の、そしてベトナムの未来へ向け、新たな挑戦は始まったばかりだ。